<日々是出会>2026/03/16 先日、NPO法人ヒミツキチが運営する、不登校の子どもの居場所「森の学校」を見学に行ってきました。
国富町深年の法華嶽公園近くの私有地を借り、森や川といった自然環境を活用しながら子どもの居場所を提供している。自然の中で子ども一人ひとりの興味や関心を丁寧に聞き取り、それを実際の活動として形にしていくスタイルである。スタッフは前面に立って指導するのではなく、子どもの主体的な行為を支える立場に徹しており、その仕組み自体が新しい子ども支援の在り方を示していると感じた。
見学当日は15名ほどの子どもが参加していた。保護者やスタッフの送迎により、決して近いとは言えない場所に通っている。交通の負担があるにもかかわらず、「行きたい」という意思を持って通っている子どもがいることに深い感銘を受けた。
保護者にとっては、交通費や利用料など現実的な負担があるのも事実であろう。本音としては少しでも負担を軽くしたいはずである。それでもなお、子どもが家に閉じこもるのではなく、人と関わる場へ向かおうとする意思を尊重し、その思いに応えようとする保護者の姿勢が伝わってきた。
子どもたちの活動を見ながら、現代日本の教育の在り方について改めて考えさせられた。これまでの教育は、「正解のある問い」にいかに早く、正確に答えられるかという能力を重視してきた。その結果、知識量やテストの点数といった認知能力が評価の中心となり、画一的な基準のもとで子どもたちは序列化されてきたと言える。
しかし、こうした知識偏重の教育は、本来育まれるべき「生きる力」を十分に育ててきたと言えるだろうか。人生は教科書どおりには進まない。失敗や挫折、想定外の出来事に直面したときに必要なのは、粘り強さ、自己調整力、他者に助けを求める力といった非認知能力である。
ところが、失敗を許容しにくい教育環境の中では、「間違えないこと」が過度に重視される。その結果、つまずく経験そのものが避けられ、既定のレールから外れた瞬間に、自分を過度に否定したり、「自分は役に立たない存在だ」と思い込んでしまう子どもが生まれてしまう。
本来、失敗は学びの入口であり、自己理解を深める貴重な機会である。それにもかかわらず、失敗が評価の低下や否定と直結する社会では、挑戦する意欲そのものが削がれてしまう。これは子ども個人の問題ではなく、教育の在り方が生み出してきた構造的な弊害である。
不登校は「問題」そのものではない。むしろ、認知能力偏重の教育が限界に達していることを、子どもが身体を通して示しているサインとも言える。
だからこそ、対処療法的に不登校へ対応し続けるのではなく、不登校という現象を通して教育の前提そのものを問い直す視点が必要であると考える。 |
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「障がい者写真集団・えん」メンバー写真を掲載してきましたが、講師が2017年11月に交通事故にあって以降、写真ワークショップを休止していますので、当分の期間、講師が以前撮った写真を掲載します。
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