「精神障がい者は、今の社会を新しく変えて行く存在である!」          

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 宮崎もやいの会広報誌「すてっぷ」秋号

2016-11-20
テキスト版


NPO法人宮崎もやいの会広報誌「すてっぷ」秋号

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「相模原事件から障がい者の生存権運動を知る!」

宮崎もやいの会代表 小林 順一

 相模原の事件に関して検索していたら、福井公子さん(徳島県阿波市在住、重い自閉症で知的障害がある息子さんがいて、2005年から阿波市手をつなぐ育成会会長)のWeb連載「障害のある子の親である私たち-その解き放ちのために・47」(生活書院)最終稿を読ませてもらって、久しぶりに障がい者問題のパンドラの箱を開けた忌憚のない文章に巡り会うことになる。
 福井さんの文で「障害がある人がこのような施設で150人も集団で暮らしていることに誰も疑問をもたないことでした。」また、「障害者運動、障害学、社会学に興味をもち始め、それは周りの親たちと考え方を異にすることにもなりました。また、入所施設大国であるわが県で、正直に私の考えを述べること自体、未だにできない現状であることも事実です」という言葉などに、活動家として周りとの温度差や意識の差を感じると同時に障害者活動としてのイノベーションを感じることができたのである。
 このように知的障害者の親という立場で日々感じることを連載で辛辣に書き綴ることが福井さんに取って、『連載は、そんな私が「私のまま」でいられる唯一の場所でした。「母よ! 殺すな」から40年以上経た今も、私たち親は子どもを殺し続けているのだと思います。たとえば、生まれる前の選別において、たとえば、親が面倒を看れなくなれば入所施設が当たり前という考え方において……。』という言葉にラジカルな意志を感じることになる。
 福井公子さんの一説で『「母よ! 殺すな」から40年以上経た今も、私たち親は子どもを殺し続けているのだと思います』という言葉の真意を知りたくて調べたら、新たな地平を知ることになる。

 「母よ!殺すな」という書籍が1975年にすずさわ書店から出版されていて、その後、絶版から2007年に生活書院から復刊される。 
著者は、横塚晃一、1978年に42歳で他界した脳性マヒ者団体「青い芝の会」のリーダーの発言集。

 横塚晃一は、1935年に埼玉県で生まれ、生後10か月の時一週間続いた高熱で脳性マヒになった。全身が不自由で言語障害もあり、歩けるようになったのは5歳の時だったという。28歳の時に茨城県石岡市で「マハラバ村」身障者共同体運動に参加する。ここで障害者としての自覚に目覚め、思想的基盤を確立する。69年に共同体が崩壊したため、仲間とともに川崎市に移り、脳性マヒ者団体「青い芝の会」の運動に加わることになる。

 1970年に横塚らが最初に取り組んだのは、重症児殺し告発運動である。横浜市で母親による脳性マヒ児の絞殺事件が起き、子育てに疲れ絶望的になった母親への同情が、地元町内会などの減刑嘆願運動となって現れた。これに対して横塚らは、「重症児に生きる権利はないのか」「罪は罪として裁け」と訴えたのである


 横塚はこう主張した。なぜ彼女が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり"この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ"と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとするこの人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。
(「母親の殺意にこそ」より)

 「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならない」では代わりに施設があればよいか。いやそういうことではないだろうと、横塚たちは言った。彼らのいう「自立生活(運動)」と呼ばれるものは、具体的・即物的には、「家と施設から出ること」(のための運動)であったのだが、この会の活動はその先駆だとも言える。


 福井さんの放った「母よ!殺すな」という言葉を、遡ることによってよりリアルに感じたと同時に、1970年代に障がい者運動としてラジカルな意志をもって施設及び家族からの保護を拒否して自立の戦いを試みていた障がい当事者がいたことを知ることになる。

 それにしても40年前の「母よ!殺すな」という言葉が、今でもリアルに感じる言葉であるということは、時代は変わっていないということを示しているのである。

<お知らせ> 
 今年度の県精神保健福祉大会が日向市で開催された中で、毎年、活動の功労者が表彰されることになっているのですが、今年は、宮崎もやいの会代表の小林順一が県知事表彰されることになり大会に出席してきました。
 この表彰は、個人が評価されたのではなく、あくまでも宮崎もやいの会の活動功績が評価されたのだと思っていますので、全ての活動関係者が表彰されたものと考えています。
 また、個人的には、支援者が評価されることよりも、当事者が公に評価されるような活動を支援したいというのが本音です。

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<特集> 相模原事件をどう読み解くか!」二人の意見から

〜福井公子氏:阿波市手をつなぐ育成会会長、熊谷晋一郎氏:東京大先端技術研究センター准教授〜

Web連載:福井 公子氏 「障害のある子の親である私たち─その解き放ちのために・47〈最終稿〉」から抜粋』
 一連の報道を見ていて、私が気になったことはたくさんあります。
 そのひとつは、障害がある人がこのような施設で150人も集団で暮らしていることに誰も疑問をもたないことでした。関西のある人気キャスターは、プールも体育館も備えていて非常に充実した施設だと。職員も200人以上いるので手厚い支援がされていただろう。そこで、仲間たちと穏やかに暮らしていた人たちだと伝えていました。
 仲間といっても、自分たちの意志とは関係なく一緒の暮らしを強いられていただけなのに……。どんな命も大切と力説しながらも、生活の質は問わない、自分たちと暮らしが違うのは当たり前そう考えているように思いました。それが、市民感覚そのものなのでしょう。

 親が重度の子であってもかけがいのない存在である事を語っていました、親が大切だと言っているのだから、存在意義がある。そう伝えているように感じたのです。社会そのものが、この人たちの存在を肯定する言葉をもっていないのではないか。そう思えて、とても切なかったのです。親を媒体としなければ伝わらないことなのでしょうか。そして、どの番組でも障害のある人のことに触れるのは臆病になっているように思いました。それがなぜなのか、私にはわかるような気がするのです。

 「障害者はいないほうがいい」「お金がかかる存在」。もちろん容疑者ほど極端でないにしても、それは私たちの心の襞の奥の方にあるのではないでしょうか。私は、親なので正面からそのことに向き合ってきたけれど、多くの人にとっては、そっとしまっておけることだったのかもしれません。この事件で、そのしまってきたものに気づいてしまった。だから、それ以上、踏み込みたくないのかもしれません。


 そして、やはり名前は公表されませんでした。それも、障害に配慮するとか、家族の意向とかいう理由で……。
ああ、やっぱり!私が、一番恐れていたのはこのことでした
 名前が公表されなかった人たち。もっといえば、家族の意向で公表することができなかった人たち。その人たちのお葬式はどんなものだったのでしょう。容疑者に殺された上に、社会的にも殺された、そう考えただけで胸が張り裂けそうです。

 私も周囲の親たちも必要以上に動揺しなかったのはどうしてなのでしょう。それもやはり、地域で暮らしてきたからではないかと思うのです。

 地域で暮らすとは、つまりこういうことなのです。そこには、いっときの安心もありません。しかし、地域と生身で触れているからこその関係も生まれてきます。確かに、地域の人からは「困ったもんだ、やれやれ」と思われているかもしれません。しかし、「いなくなればいい」「死んだほうがいい」などとは思われてはいない。そんな自信のようなものが私たちにはあるのです。それは、これまで一人ひとりが暮らしてきたリアリティがあるからだと思います。

BuzzFeed:熊谷晋一郎氏 「それでも、他者とつながり生きる。脳性まひの医師の思い」から抜粋』
 この事件のあと、薬物依存症患者を支援する「ダルク女性ハウス」の上岡陽江さんから電話がかかってきました。上岡さんは、当事者研究で知り合った仲間であり、私に大きな学びを与えてくれた方です。

 その上岡さんの電話は「友達やめないでね」というものでした。どういう意味か、最初はわからなかったんです。でも、上岡さんたちもまた、この事件で苦しんでいることがわかりました。
 依存症患者の中には、精神障害を併せもっている人がいます。その中には、妄想を口走るような仲間だっている。逮捕された容疑者と同一視されやすい、属性を持っている、と上岡さんは思ったのでしょう。
 一人一人は全然違うのに、世間のまなざしは、「彼らは同じ属性にいる」として、同一視する。上岡さんは、世間のまなざしに影響を受け、自分に責任を感じて、電話をかけてくれたのではないかと思いいたたまれない気持ちになりました。
 身体障害者の中にだって、精神障害や薬物依存症の人が近づいてきたら、危ないし、怖いというという人はいます。ましてや、介助者の中にいたらどうですか。妄想を口走る人がきたら、怖いですよ。私だって怖いし、実際に動揺もしました。街を出歩くことだって怖い。でも、怖いから社会から排除してほしい、というのは違う。私たちは、コミュニティーの中で生きるという選択をして、実際に生きている。

 怖いのは、私一人じゃない。みんな怖いから、みんなで解決しようってことを大事にしたいと思う。

 当事者研究を通じて、わかってきたことは、表面的にしか知らないことが恐怖を増幅させるということです。アルコール依存症にしても、統合失調症にしても、アスペルガー障害にしても、話を聴くなかで、こんなに苦しみが同じだったのかと感じてきた。同じだからこそ、つながれると思ったし、現に一緒に研究を積み上げてきました。
 障害者運動では、他の障害者と苦しみが同じだということは見つけられなかったけど、当事者研究では見つけられたんです。
 運動のモチベーションは世界を変えることですが、研究は語り合う、知り合うことがモチベーションになります。一度、知った相手はモンスターではないということがわかるんですね。
 私たちが、隔離を肯定することは、時計の針を巻き戻すということです。コミュニティーが、自らがクリーンであるというファンタジーを維持するために、多数派から外れた人は、コミュニティーの外部に置きましょうという流れをもう一度、繰り返すのか。
 コミュニティーの中で生きることで、救われたのは私だけでないはずです。他の身体障害者も、薬物依存症も、精神障害者もあらゆる少数者は救われ、実践が積み重ねってきたわけです。

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<特集>「相模原事件を当事者はどのように感じたのか!」 〜二人の当事者の寄稿文〜

「相模原事件」について   藤崎 可南恵(当事者)
 この事件が起こった際、真っ先に報道各社が伝えたのが『犯人に精神科の入院履歴があったこと』だったと記憶しています。
 事件の詳細がまだ分かっていない段階にも関わらず、マスコミが水を得た魚のように大々的に報道していく中で感じたのは『精神科入院』という犯人の私情についての連呼と付け焼き刃にしか見えないコメンテーターの方々の私的な見解。真実を報道する筈のマスコミが『精神科入院』という犯人のほんの少しの一面のみを延々と視聴率のために、同じことばかりを放送する異例の事態であった。
 このような報道を延々と見せられて、精神科入院歴のある私がもし、交通事故等の過失を誤って起こしてしまった場合、報道で『名前』と『精神科入院』ということを報道されたら、延々と叩かれてしまうのではという危機感を覚える程に怖かった。
 元々、憶測で語るようなあいまいな報道の仕方自体、私は苦手であったが、今回の報道で後々分かったこととして犯人には『障害者蔑視の傾向があったこと』『手紙を書いた上での計画的犯行であったこと』などを知ったが、精神科入院については、その後も報道され、精神患者=危ない事件の首謀者という構図がより鮮明になっていったように思います。
 このままでは私達当事者がいくら精神疾患への偏見を無くすための活動をしても偏った報道によってかき消されてしまうのではないだろうか?
 定例会の中で弁護士さんから聞いた話によると、犯人の手紙に、『自分は逮捕されても責任能力の面で無罪になる』との表記があるが、それは犯人の誤認であること。責任能力がなくても精神的な治療という形で無期懲役よりも長く拘束されることがあるということが分かった。また、責任能力についても専門家が鑑定した上での結論なので、偽りを隠しきれるものではないことも分かった。
 報道のあり方について他の参加者からも怖いと思うという反応があった。私は今回のことで精神疾患者への偏見が助長されるのではないか、という危機感を持っていたのだが、他の参加者から『私の周りにも精神疾患者がいる。明るい方で一緒にいるとこっちも明るくなれる。今回の報道の後でもその人のことが怖くなったりはしなかった』『精神疾患だとか関係なく、顔を見て話せばきっと友達になれる。精神疾患はその人の一部にすぎない』などとの温かい声が届き、今回話し合ったことで報道が全てではないこと、自分の目で真実を見極めることの大切さ、また、精神疾患者には怖いというイメージが根強いがイメージを変えられるのも、精神疾患者自身の努力次第であるということが再確認できた日になりました。
 これからも精神疾患者のイメージアップのために色々と働きかけていきたいです。

「相模原事件」について    日高 信明(当事者)
 精神障害者自立支援ネットワーク宮崎の9月定例会に参加しました。
 定例会の前半は、弁護士の橘潤先生に「相模原事件は措置入院で対処すべきか!」ということで講演していただきました。
 精神障害の当事者として、この事件の報道を主にネットで知ることが多く、精神障害について偏見が助長されるのではないか、措置入院の基準が緩くなるのではないかと不安に思う気持ちが強かったです。
 様々な報道のなかで、私は厚労省発表の記事をちゃんと読むように心がけました。
 公式な発表を、ちゃんと知っておかなくてはと思い、9月14日に発表された「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」の中間とりまとめの全文を読みました。
 読んで感じたことは、
「措置入院決定や措置入院解除は適切だった」
「退院後のサポートは不十分だったと感じる」
「施設の防犯意識は高く、警察とも連携していたので、施設側の落ち度はないのではないか」
「加害者の優生思想は、最初の段階はごく自然な感情から生まれたもので、その後極端な考えを抱くようになるということは、決して特別な人だけが成りうるものではなく、誰もが加害者になりうる可能性がある」
「まず、『しゃべられない障害者は生き地獄だ』と加害者が感じたときに、心理的サポートがあれば、よかったのではないか。未然に防ぐことができたのではないか。介護職へのメンタルサポートや自由に語れる場があれば、思想が偏ったり凶悪な犯行計画を練って手紙を出したりすることもなかったのではないか」です。
 今回、橘弁護士の話を聴き、弁護士が精神障害のある方に対しての対応がしっかりしていて、とても頼もしく感じました。
 守ってくれる人がいる。そう感じました。
 グループワークでは、自分の感じた思いを話すことが出来て良かったです。自分の思いを更に強く持つことが出来ました。
 私は措置入院対応については賛成です。不安定な心理状態にあるときに、医療サポートや心理的ケアを受けたいからです。
ただ、この事件が投げかける問題は、多岐に及びます。
 結論がでない議論だとしても、繰り返し意見を交換しあうなかで、深く考えていけたらと思います。
 グループワークでも出ましたが、この事件は他人事ではなく、当事者意識をもって「もし自分だったら」という問いかけを忘れてはいけないと思いました。

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ピアサポーター 兒玉美香の取材記:希望を感じる事業所紹介

「就労移行支援事業所:リタリコワークス宮崎」
働く場で「人間関係が上手くいかない」→家で「自分の世界に引きこもる」→親の勧めで「リタリコを知る」→自分の意志で「リタリコを利用する」ことになって約半年。Aさんは優しい表情で現在にいたるまでのお話をしてくださいました。
 「リタリコ」は一般就労を目指す人が利用する場所なので「とても厳しいところなんだろうな、私にはまだまだ先の話だな・・。」と思っていたのですが、実際の印象は私の想像とちがっていました。まずは「場や人に慣れる」→色々なプログラムを通して「学ぶ」「ありのままの自分を見つめる」「自分を表現する」→自信や意欲が戻ってきたら「チャレンジする」→働く場ができたら「つながり続ける」と少しずつ自分のペースで利用できる所だとわかりました。
 Aさんは普段は「相手の話を聴いて自分の思いを誤解のないように伝える練習」や「レクレーションプログラムの企画」などをされているそうです。これからは職場見学・実習をしながら「自分のできる」を仕事にして就職後も職場で長く働き続けられるように「リタリコ」とつながりをもちたいと話されていました。
 センター長の大塚さんは「就職の数を出すから就職の質へ」と話されていました。全国展開している「リタリコ」のネットワークを活かして「働く場・働き方の選択肢」が増えていくこと・就職先と連携をはかり「雇用する側もされる側も幸せになれる」好循環をつくることなど「働くこと」の最前線で活躍されることを期待します。「働きたい」と願う私たちと共に・・。

「就労移行支援事業所:エム−フロント」
 初めは人の顔を見ることができなかったAさん。家族的な雰囲気のあるエムフロントで緊張をほぐし、生活をする上で当たり前の苦労を経験しながら「自分の気持ちを伝える力・自分自身で対処する力・働く体力」を約2年間かけて「自然に」身につけることができたそうです。
 一度はあきらめていたアパレル関係のお仕事の実習を終えたAさんは「働くことは自分を成長させること」と優しい笑顔でお話してくださいました。
 「やりたい仕事で楽しく働いてほしい」「5年後も10年後も笑顔で…。」隣で見守る管理者の水早さんからは「子供を送り出す親」のような深い愛情を感じました。
 あえて「初めから働く厳しさを伝えない(実習先で体験できるので)」「まずは心を取り戻すことから始める」という理念のもとで普段は3つの班に分かれて活動しているそうです。
 水早さんは「一緒に・楽しく活動するなかでスタッフもメンバーさんから元気をもらったり、メンバーさんと一緒に成長できる」と笑顔で話されていました。
 Aさんはエムフロントの利用が終了した後も「また遊びに来たい」と言われていました。
 初めは「自分にはできない」と思っていた。それが「やりたい」に変わり「できるかも!」になった。
 安心できる場所や仲間がいると人は「働くこと」に挑戦できる…。 一般就労を目指して働きたい人がいる。それを応援するサポーターがいる。受け入れる事業所がある。
 「就労移行」には夢があると感じました。

「就労移行支援事業所:ぐらんま亭」
 「今がOK!」と笑顔で話されるAさん普段は「お弁当部門」でお仕事をしています。「盛り付け」「洗い物」「配達」「そうじ」などたくさんの作業の中で一番好きな作業が「配達」。「自分が普段行かないところへ行ける」「道が覚えられること」が魅力と話されていました。
 ご家族が支援の資源があることを知り色々な事業所を見学していく中で、土地感があり場所を知っていたというAさんの「安心感」が決め手となり「ぐらんま亭」を利用することになりました。多忙な中武社長の健康を気づかう優しいAさんです。
 「夢は車の免許を取ること、自立して親への恩返しがしたい、結婚も…。」とたくさんの夢を話して下さったBさん。以前は「そうじ部門」でお仕事をしていましたが、最近「お弁当部門」を担当するようになりました。「ぐらんま亭」を利用するようになって「生活のリズムが整った」「自分で考えるようになった」「仕事の苦労を経験できた」などご自身の生活に変化が見られたそうです。友人がぐらんま亭にいたことが利用のきっかけになったそうです。「若さ」と「礼儀正しさ」が好印象のBさんです。
 サービス管理責任者の松田さんは生活に即した取り組みやすい仕事(お弁当・そうじ)をする中で「メンバーさんの想いを受け入れること」を大切にしながら「社会のルールや一般就労の厳しさを伝える」優しさと厳しさのバランスの難しさを話されていました。
 高鍋町にも私たちの「働きたい」を応援してくれる希望の星がありました。

「就労継続支援A型事業所:ぐらんま茶寮」 
 「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」。
 建築されて約120年の古民家を改装してオープンした「和カフェ ぐらんま茶寮」に明るい声が響く。
 昨年のオープン当初から働くAさん。Aさんがここを利用したいと思ったきっかけは「接客が好き」「職場の雰囲気が好き」「安心感がある」ということでした。
 ぐらんま茶寮での仕事内容は「カフェ」「パソコン」「メンテナンス」と3つあり、Aさんはカフェで接客を担当している。「お客様との交流も楽しみの一つ。料理だけでなく、くつろぎの空間を提供したい。」と話されていました。
 働く苦労として「体調の波」があるそうです。「体調の波」の幅を小さくするために自分なりの工夫をしているそうです。その工夫を受け入れてくれる職場の仲間と「助けて」と言えるスタッフがいる。これがAさんにとって良い効果をもたらしているようです。
 スタッフの浜砂さんは「開店準備から閉店まで安心してメンバーさんに任せられる」と話されていました。メンバーさんと共に、メニューの内容などについてみんなで知恵を出す「会議」を行い、お互いの得意分野を活かして「やらされるのではなく、自分たちでやっている」という雰囲気を大切にしているそうです。
 自然豊かな環境で地域にとけこむように営業している「ぐらんま茶寮」。
 高鍋という町の中に、静かだけど、大きな存在感を感じました。

   
 
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